「独立、するの…?」 彼女の凛とした、けれど今日ばかりは不安げな声が、小さな白い白い部屋に響いた。 この部屋には彼女と俺、二人しかいない。 二人しかいないのにこの圧迫感はどうしてだろう。 責めるような、縋るような視線に俺の心は揺らいでいた。 「今のままじゃだめなの? アーサーがいて、アルがいて。貴方達二人が一緒なら、世界のどんな国だって、」 「駄目なんだ。アーサーの弟分でしかない俺のままじゃいられない」 彼女の言葉を遮って、否定する。 君を否定したいわけじゃないんだ。そう言って安心させてあげたいけど、今の俺には言えない。だって、この状況を作ったのは紛れもなく俺自身だから。 俺の身勝手な欲望が、こんな状況を生み出しているのだから。 「君が好きなんだ」 声は震えていた。 はっきりと言ったはずなのに。いつもの俺らしく言ったと思ったのに、どうしてこんなにも情けない声が出るんだ。 彼女は目を見開いて、俺を見つめる。 ああ、その大きな目にいつだって見つめて欲しかったんだ。 その目に映すのは俺だけであって欲しかった。 ほんのり赤く染まった頬が、なんとも可愛らしくて欲情する。 「のことが、好きで、好きで、好きすぎてたまらない」 君を困らせるだけって分かっているよ。けど、言わせてくれ。俺の気持ちを知ってくれ。ただ身勝手な行動じゃなくって、俺は君が好きで、その想いのために独立したいんだって、分かってくれよ。 …そんな想いだって、俺の身勝手だよね。ごめん。 「アーサーの弟じゃ駄目なんだ。一人の男として、君とともに在りたいから」 「 ア、ル」 掠れた君の声が、俺の耳に届いた。 ゆっくりと俯いて、君は床へと視線を落とす。君がいつも磨いている床は、今日だって美しく輝いている。 「…アルフレッド。私は、」 「待ってて欲しいんだ。君には辛い想いばかりさせるけど」 顔を上げた君の声を、俺はまた遮ってしまう。急いた様な言葉に、口調に、君はどんな感情を抱くんだろう。 君の言葉はいつだって子守唄のように心地よいのに、今日だけは聴きたくないんだ。君は俺の決心を揺るがしてしまうから。俺の一大決心だって、君の前にはハンバーガーのようにやんわりとちぎられてしまうんだから。 「時間はかかるだろうけど…、必ず独立するから」 「アルフレッド・F・ジョーンズ。…私の返事は聴いてくれないの?」 俺を見つめるまっすぐな瞳に、俺は笑う。 君の瞳に映る俺は、なんとも情けない顔をしていた。くしゃりと顔をゆがめて、泣きだしそうな。子供のころのような、顔。 そんな、余裕のないところばかり覚えていて欲しくないから、少しでも大人らしく見せたくて、俺は君に手を伸ばした。 君の髪に触れて、ゆっくりと撫でつける。 「独立したら、必ず、君を迎えに行くから」 柔らかな君の髪は、一度も絡まずに俺の手をすり抜ける。 一度でも絡まったら、俺はきみから手を離せないかもしれないから。少しだけ寂しかったけど、それで良かった。 君の大きな目が少しだけ輝いて、ああ…、違った、涙ぐんでいた。 俺のために泣いてくれてるって、勘違いでもいいからそう思いこんでみたくて。なんだか少し嬉しかった。悲しかったけど、嬉しかった。 「そしたら、結婚しよう。ずっと一緒にいよう」 「…私、まだ、まだなにも、言ってないよ。好きとも、嫌いとも、言ってないよ」 愚図るように、君はそう言った。 けど、君の返事は聴きたくないんだ。俺だって不安なんだから。もし君の想いが別の誰かへと向かっていたとしたら。そしたら独立なんてできない。世界の終焉のような気持ちでアーサーと向かい合ったって、負けるにきまってる。 不安を全て振り払うように、俺は大げさなくらい大きな声で笑い飛ばした。 心の中は揺らいで揺らいで、全然安定しないのに。とにかくこの空気を消してしまいたかった。乾いた笑いが、この部屋いっぱいに響いた。 「HAHA! そんなこと関係ないさ!僕はヒーローだからね!」 「ヒーローなんて。ほんと、あなたってば、」 なるべく優しく、彼女の髪を撫でる。 それを繰り返すたびに、彼女の瞳は潤いを増して、ついにぼろりと一粒の涙がこぼれた。 透明な、雫。こんなにも綺麗なのに、それを流す彼女は今ひどく悲しんでいる。彼女があまりにも純粋すぎるから、だから涙さえもこんなにも美しいんだろう。 「傲慢で、身勝手で、ほんと、いつだって自分のことばっかり。自由なんて求めたって、こんな時代じゃ手に入るか、わかんないのに…っ ほんと、ほんとアルってば、ばかみたい…!」 いかないで。 彼女の唇が、そう形作った。 涙でしゃくりあげた声では、その言葉は俺に届かない。 ただただ、泣きじゃくる彼女の前で、俺は少しだけ安心していた。 俺の存在が、彼女にとって“いなくてもいい”程度じゃないって、痛いくらい感じられたから。 「泣いてくれて、悲しんでくれて、ありがとう」 俺だって不安だから。アーサーの目の前に立って独立を宣言するのは、ひどく、ひどくこわいから。 そしてなにより、一人きりに戻ってしまう瞬間が、こわいから。 君の中に俺の居場所を感じて、俺はホッとしていた。君は泣いているのにね。 俺は、なんてひどい奴なんだろう。君の涙すら俺は愛しくて愛しくて、たまらない。だけど。 「お願いだから泣きやんでくれ。…笑って見送ってくれよ。」 ゆっくりと君の髪を撫でていた手を、そっと頬に滑らせた。 もう片方の手で流れる涙を拭うと、温かい雫が俺の手に触れて、君自身を強く感じられたように思えた。 君の、素の感情に触れられた気分になった。 だから、俺はさっきまでのカラッカラに乾いた笑みじゃなくって、本当に、嬉しくて笑えたんだ。 君が泣いて、俺が笑う。君の涙も好きだけど、でもね。俺が本当にすきなのは、泣き顔じゃなくって、 「俺は、向日葵みたいに笑うが好きなんだ」 その笑顔に何度救われてきたんだろう。今だって、そう、救われてる。 俺の言葉を聞いて、ぎこちなくも君は笑みを見せてくれたから。 離れる少しだけ前に、君は言った。「私が向日葵なら、あなたは太陽ね」そんなに大きな存在になれた感覚はなかった。君にとってはアーサーの方が太陽じゃないのかい。そう思った。 「どうしてそう思うのかい」そう訊いても、君は笑うだけだった。「いずれ分かるわ」そう言う君の笑顔が眩しくて、俺は疑問もなにもかもどうでもよく思えた。出発するまでの、君といられる少しの時間を、ただただ感じていたかった。 君の手のぬくもりを、いつまでも覚えていたかった。君の小さな柔らかい手を、僕はきゅうと握りしめた。 あれから、数十年。 君のいる屋敷に、俺は漸く足を踏み入れることが出来た。 君はいつものようにたくさんの太陽を浴びて、真っ白なシーツを干していた。 エプロンドレスを揺らして、ひとつひとつの仕事を丁寧に丁寧に、こなしていた。 「待ってたかい?」 そう、後ろから声をかけたら、君は驚くでもなくゆっくりと振り返った。 君は何一つ変わっていなかった。 やわらかな髪も、白い肌も、優しいほほ笑みも、大きな瞳も。 まるで、あのときに戻ったような、ゆるやかな気分になれた。 「…遅いよ、何年待ったと思ってるの」 「ごめんよ。でも、約束通り、君を迎えに来たよ」 君は無言で俺へと足を向けた。 こつんこつん、と少しヒールのある靴が音を立てる。 ゆっくりゆっくりと足を進めて、俺の目の前でそれは止まった。 彼女は、あのときのように真摯に、俺を見上げた。 「…もしかして、遅すぎたかい…?」 なにも言わない様子に少しだけ不安になって、そんな言葉を言った。 そしたら彼女は、表情をひとつも崩さず、人差し指で俺の頬を突いた。 丁度、絆創膏を貼った部分を、つん、と小さくつついた。 「ばか。ばかアル」 非難の言葉とともに、彼女の感情は堰を切ったように溢れだした。 眉間を寄せて、なにかを耐えるような表情と。嬉しくて嬉しくてたまらないときの表情を足したような。泣き笑いの顔をして。 彼女は、俺の胸に顔を寄せた。 「向日葵は、太陽の方を向いていないと生きていけないのよ」 そして、小さな声でそんな言葉を言ったんだ。 その言葉が、あのときの答えだって気付くのに少しだけ時間がかかった。 「あなたがいなくちゃ、私は生きていけないの」 俺の胸で、静かに涙を流す君を、俺は漸く抱きしめることが出来た。 君は柔らかくて小さくて、そしてとてもあたたかかった。君と離れていたこの数十年の空白をすべて埋めてくれるような、充足感を与えてくれた。 「俺だって。君がいなくちゃ生きていけないよ」 君は顔を上げた時、小さな悲鳴を上げた。 俺のファスナーに君の髪が引っ掛かって外れなくなって。 そんな小さなアクシデントが、ひどくあたたかくて嬉しかった。 繋ぎとめられたのが今で良かった。 もしあのときに起きていたら、俺はきっと踏みとどまってしまったから。 大きな幸せはないけど、穏やかで優しい日々が続いていた、あの日のまま。 「アルフレッド。もう一回、いまの貴方の気持ちを聴かせてもらえる?」 「…すきだよ。きみが好き。宇宙で一番、のことを愛してるさ!」 その瞬間君が笑ったから。俺もつられて笑ったんだ。 2010.5.22 三笠 |