「ティノくん、ティノくん! 朝ですよ、起きてくださーい!」
その声を聴いて、靄のかかった脳がゆるゆると覚醒し始める。
何度かゆっくり瞬きをしながら、一度寝がえりを打ち、状況把握。
こんがり焼けたライ麦パンに半熟の目玉焼き、それにベーコン。
そんな定番メニューが用意されているだろうことが匂いで分かって、思わず頬が緩む。
階段の下から呼ぶ声はいつものように優しくて、その姿を早く見たくて、僕は身体を起こした。
「ん、ン―――っ ………いい朝だなぁ」
カーテンを開けると空は明るく澄みきっていた。今日は温かそうだなあ、なんて思いながら窓を開けたら思っていたよりも涼しくて、ぶるりと身体が震える。(うっひゃあ、この時間はまだ寒いなあ)
急いで窓を閉めて、パジャマを脱いで着替えをする。いつもの通りに軍服のベルトを締め、ワイシャツに袖を通そうとした、その、とき、
「ティノくん!まだ寝てるのー?」
ガチャリとドアが勢いよく開かれ、先ほど僕を呼んだ彼女が顔を出した。
あれ、でも確か今、僕着替え中…
「うっひゃあああああ!ねねね姉さん!?」
「あれ。着替え中?ごめんねー」
ごめんねじゃなくって!!
僕は急いで背中を向けて、ワイシャツのボタンをはめ始めた。
あれ、なんで僕がこんなに慌ててるの、おかしくない?普通逆じゃないの!?
「ティノくんティノくん、身長伸びたねー」
「は、はい!?ななななに言ってるんですか姉さん!というかそうじゃなくて、」
「えー、私は気にしないから大丈夫だよー。にしても、なんか男の子だなあって感心しちゃった。身長抜かされたのは気付いてたけど、なんか体つきもちゃんと男の子してるねーって、今更って感じだけどさ」
すごいなあ、どんどん抜かされちゃうんだね。
そう呟く姉さんの声が聞こえて、僕はどくんと心臓が高鳴るのを感じた。
僕と姉さんはただの従姉弟で。でも僕は姉さんが好きで好きでたまらなくて。でも今の生活がすごく幸せだから今さらこの関係を崩そうなんて思ってなくて。 …でも、今なら。いまなら言えるかもしれない。言っていいかもしれない。
そう思った。思ってしまった。
きっちりボタンをはめ終わって、くるりと姉さんに向き直る。
「ね、姉さん、」
「え?なあに?」
「あの、と、突然なんですけど、僕…」
姉さんのこと、ずっと前から好きだったんです。
そう言おうとした。口はそう動くはずだった。
なのに。
首をかしげていた姉さんが、あっと口を開いた。
「ティノくん、時間!」
「え?」
「今日は世界会議でしょ? 遠いんだから急がなきゃ」
そう言って、またばたばたと音を立てて、部屋を出て行った。
時計を見ると確かにいつもより少し時間を押している。
言えなかったなあ、とか。でも今言うよりももっといい場所でいいタイミングがあるだろうからそのときに、とか。いつもどおりに情けない後ろ向きなことを思いながら、リビングへと足を進めた。
いつもどおりに美味しい食事。
他愛無い話をしながら姉さんと食べる食事はすごく楽しくて、幸せで。
想いを伝えなくても、こんな日がずうっと続けばいいのになあと心から思った。
「このジャムね、フェリくんにもらったブドウで作ってみたんだけど、どうかな」
「えっ、これ手作りなんですか!?おいしいです!すっごく!」
「ほんと? 良かった。いっぱい食べてね」
「はい!」
他の男の人の名前が出ると、なんだか胸がチクチク痛むけど、でも姉さんにとって彼らは友達でそれ以上ではなくて、一緒に暮らす僕以上に近い人なんて今はまだ多分だけどいなくって。時折激しい焦燥感に駆られる。
いつか姉さんは誰か愛する人を見つけて、この家を出て行くのかなあ、なんて。
その相手が僕でありますように、なんていうのは夢を見すぎかな。
「今日夢を見たんだけどね」
「へ? 夢、ですか?」
「うん。ティノくんが誰かと結婚しちゃう夢」
姉さんはジャムをたっぷりつけたライ麦パンをかじりながらそう言った。
いつもどおりの笑顔を浮かべて、ああ可愛いな、じゃなくって。僕が誰かと結婚してもそんな笑顔で見送っちゃうんだなあとちょっとさみしく思う。
もうちょっと惜しんでくれたら嬉しいのに。
「そういうの、全然おかしくないんだなあって思って、びっくりしちゃった」
「え、おかしくないってどういう…」
「んー、なんていうかね、ティノくんが誰かと結婚するのって全然全くおかしなことじゃなくて普通にあり得るなんだなあ、って今更だけど気づいたの。今まで全然考えたことなかったから。これからもずーっとこうして二人でなんとなく生きて行くんだなって思ってたから。…だから、ちょっとびっくりしちゃった。それはちょっと嫌だなあって思っちゃった」
ごめんね、と姉さんは言った。
申し訳なさそうに、ちょっと眉尻を下げて、それでも笑っていた。
そんな姉さんを見て、気づいた時には僕も口を開いていた。
「…僕も」
「うん?」
「僕も、姉さんがもし結婚して此処から出て行っちゃったら、…嫌だと思います」
「うん」
口から出た言葉はそれきりで、もっと気の利いたことを言えればいいのにと思う。もっともっと、フランシスさんみたいに女性を喜ばせられる言葉が出てきたらいいのに。そう思うけれど、なにひとつ浮かばない。
なにか、なにか、なにか――。そう思っているうちに、姉さんの声が耳に届いた。
「よかった、おんなじだね」
「…はい」
照れくさそうに笑う姉さん。
口下手でも、そんなふうに笑ってもらえるなら、それでもいい。
もっともっと姉さんに喜んでもらえるような言葉を、行動を、知りたい。
そう思うけれど、ずっと昔から思っているけれど、でもなかなかうまくはいかない。僕はいつだって姉さんに救われているのに、僕は姉さんになにか返せているのかな。そう思うけれど、なにひとつ浮かんでこなかった。
「あっ、ティノくん、そろそろベールヴァルドさんが迎えに来る時間だよ」
「はっ、そうですね! 今日も一緒に乗せて行ってもらう約束してたんでした!」
「片付けはやっておくから、ティノくんは自分の準備してて」
「えっ、でも…」
「いーの。ほら、ダッシュ!」
「はっ、はい! ありがとうございますっ」
いつもどおりの毎日が過ぎて、いつもどおりに姉さんと話して。
何も変わらないことは幸せだけど、いつかなにか変ってしまうんじゃないかって漠然とした不安を抱えていて。
そんな日々を過ごしているけど、途中姉さんを見ると幸せそうに笑っているから。
だから僕もしあわせなんじゃないかって、思うんです。
(あとは告白して…えっと、でも断られたらどうすればいいんだろう…)
(ティーノーくん! お迎え来たよー)
(!! い、今すぐ行きますっ)
2012.7.10 三笠