キスの日

 なんとも間の悪い日というものはあるもので、今日がその日だった。いつもであれば、人のいない空き教室だとか図書室の本棚の陰だとか、周りに人がいない時を見計らって、したいときにはあまり不自由なく、キスできていた。そういう状態だったから、まあ楽勝だろうと思っていた。だけど、なぜだか今日は、別行動が多い。元々木曜日は選択授業が多くて、しかも違う選択をしたものばかり。たまに授業が被っても、は基本的に女友達と授業を受けている。選択授業が違うと、一緒に移動するのもおかしな話だ(しかも、教室を出た瞬間に、真逆の方向へ行かなければならない)。朝食は隣で食べたけど、昼夜はタイミングが悪く彼女の両隣どころか前までも席が埋まっていて、ここでもまた別行動だ。夕食後に逢引でもと思って狙っていたが、俺が声をかけるよりも前に、マクゴナガルに呼び出されていた。それを見た瞬間、どんなに叱られた日よりもよっぽど妬ましい目で寮監を睨んでしまったのは、気づかれてないと願おう。談話室で待ってみるかと思ったが、なかなか戻ってこない。先にシャワーでも浴びるかと席を外した間に、自室に戻ってしまったと聞いたのは、ほんの数分前のことだった。俺は女子寮には入れないからと、適当な女子に話しかけてを呼んでもらったが、シャワールームに行ってしまったと聞いた。再度、待ちぼうけ。あーあ、なんだこれ。朝食でちょっと喋ったきりで、欲求不満。適当にフレッドやリーと話してみるが、気もそぞろ。


「消灯まであと1時間か。これじゃあ賭けは俺の勝ちかもな」
「? 何の賭けだ?」
「お前が今日と逢引できるかどうか。昼くらいから気にしてたから、リーと賭けたんだ。でも、最後まで勝負はわからないもんさ」


 呆れて声も出ない。フレッドとリーはそんなことを賭けていたらしい。賭けたのは1ガリオン。逢引といいつつ、キスできればフレッドの勝ち。できなければリーの勝ちなんだそうだ。人を賭けの対象にするなよと言いたいが、逆の立場ならむしろノリノリで賭けるから、何とも言えない。


は寝間着姿で談話室に来ることはほとんどないだろ? あっても、階段上でさらっと全体を見て終わりだ。そんなんでどうやってキスできるって言うんだ?」
「今日が例外の日かもしれないだろ? それに、寝間着姿かどうかなんかわからないさ」
「シャワーを浴びて、また制服を着るやつがいるか? 別に泥をかぶったわけでもあるまいし」
「寝間着だからって談話室に来られないなんてルールはどこにもねーよ。あののことだから、俺たちの推測なんかあてにならないだろ」


 どうやらフレッドもリーも自信があるようで、あーだこーだと推測を繰り返している。女子寮の入り口をずっと見張るのもおかしいから、適当に話に入りながらも、ちらちらと向こうを窺う。もうあと30分もない。と、そこでドアが少し開いて、よく見る顔が覗いた。長い黒髪はおろしたままで、紺色のワンピースを着ている。上から談話室全体をざっと見渡して、それからーー目が合った。少し顔がほころんで、それから寸の間躊躇いながらも階段を下りてきた。一直線にこちらへ。視界の片隅で、リー・ジョーダンが頭を抱えているのが見えた気がした。


「呼んだ?」
「ああ、うん。寝るとこだった?」
「んーー、明日の準備したら寝ようかなって思ってた。なにか用だった?」
「今日殆ど喋れてないから、ちょっと外でも行かない?」
「え、さすがにこの服で談話室より外はちょっと」
「アーー、だよな」


 膝下までの長めのワンピースはタオル地で着心地がよさそうだが、明らかに寝間着で、外で教師に見つかったら小言のひとつやふたつは免れない。シャワーを浴びたばかりで多少体温が上がっているのか、普段よりも血色がいい。髪はちゃんと乾かしているようだが、なんとなく艶があるように見える。おろした髪も、鎖骨が見えそうなくらいゆるめの服装も、なんとなくいつもと雰囲気が違っていて、このまま抱きしめてキスしたいなあなんて感情がむくむくとせりあがってくる。やわらかい感触がいつもより直に伝わってきそうで、たまらない。……アーーだめだだめだ。


「明日はごはん一緒に食べる?」
「ん、ああ。隣空けとく」
「うん、わかった。放課後は? 今週は宿題少なかったから、余裕あるよ」
「じゃあいつもの場所で」
「りょーかい。……えっと、じゃあ、どうしよう? この後も3人で話してるの?」


 は、俺の向かいに座るフレッドとリーを気にしているようだった。別に、俺はフレッドたちと離れて、と喋っていても良かったが、割り込んだことを気にしているようだ。二人がこそこそとなにか喋ってるのは、聞き取れないものの、背中で感じていた。
 不意に、フレッドがに話しかけた。嫌な予感がする。

、今日は何の日か知ってる?」
「? 知らない。5/23ってなにか特別な日なの?」
「お、知らないのか。今日は、周りでカップルがいつもよりもいちゃいちゃしてるように見えなかったか?」
「いつもより? ……そうだった?」
「まあ、多少な。今日はキスの日ってやつらしい。眉唾もんだけど、とりあえずきっかけなんかなんだっていいだろ」


 いつもと違ったっけと彼女は今日の様子を思い出そうとしているようだが、どうにもピンと来ていない様子だ。恋愛事に関しては、自分でするのも慣れない様子だが、見るのも慣れないらしく、無意識に視界の外に追い出してしまっているようだ。らしいけどな、と思っていると、思いついたようにこちらに顔を向けた。そして、――爆弾投下。


「……もしかしてジョージもキスしたかったの?」
「ぶはっ、直球!!」
「さーーすが! そうでなくっちゃな」


 背後で、げらげらと笑う二人。俺はもう肯定も否定もできず、頭を抱えた。いやまあキスはしたいけど。キスの日とかそういうの関係なく、いつもどこでも。急に二人に笑われてあたふたしているの様子を見ながら、あーーもうめちゃくちゃかわいいけどどうしたらいいんだろうなって思った。談話室の中だとどうしても人目はある。は人目がある中でキスをするのは嫌みたいだし。


「あ、そうだ」
「?」


 なにかひらめいたようで、がこちらに手を伸ばしてきた。人差し指と中指だけ揃えて、俺の口に当てた。やわらかい。若干だけどキスに近いような感触。は、ちょこっと照れてるようで、ほっぺが上気してる。あれでもさっきもこれ思ったな。湯上りだからか、照れてるのかわからない。ていうかなんだこれ。


「指の先って、キスしたときの感触に似てるんだって。目をつぶってると、どっちかわからないって聞いたことあるの。これでいい?」
「――――」


 これでいい? 良くないって即答すれば、そのまま唇を奪えたか? 二人きりならそうしてた。ぎりぎりで理性がストップをかけた。GOとSTOPが同時にかかった状態で、動けない。ああ畜生。やられた。


「え? あの、だいじょうぶ?」
「……心中お察しするぜ、ジョージ」
「さすが生殺しクイーンだな。噂に聞いてたよりよっぽどひどい」
「え、え、それどういう反応なの? だめだった??」


 生殺しクイーンは初耳だけど、まさにその通りだ。本物が目の前にいるのに、なんでわざわざ感触が似てる別のもの(彼女の指なのだから完全に別物というわけではないけど)で我慢しないといけないんだか。あーーでも、まあ人前はNGだという彼女のルールに則った最大限の譲歩でもあるような気がする。いやでもそれでも、せめて頬だとか額だとかいくらでもあるだろうに。なんなら手の甲とかでもいい。彼女の唇に触れられるならなんでもいい気がする。……のになんで俺が触れられるほうなんだか。
 やり返したい気持ちはあるけど、彼女のあれこれは俺だけが知っていればいいんだから、ここでギャラリーの前でなにかをするのはためらわれる。ああくそ、やられっぱなしは性に合わないんだけどなって思いながらも、彼女にだけは、どうにもいつだって負けっぱなしな気がする。きっと彼女にそう言ったら、わたしのほうが負けてる気がすると拗ねたようにつぶやくのだろうけど。
 明日絶対に、たっぷり堪能させてもらわなくちゃな、と心に決めた。何度も何度もお預けを食らってるんだから、明日はおいしい思いをしないと割に合わない。



キスの日。
(キスしてない)



(何が悪かったんだろうと呟く彼女が部屋に戻るのを眺めながら、さっきの感触を反芻していた。キスの感触に似ていたような似ていなかったような)
(ところで賭けはどっちが勝ったんだ???)

2021.05.23 三笠