夏休み01



今年の夏休み、世間的な大事件は、シリウス・ブラックの脱走だろう。本来ならいけないことだろうけれど、わたしはそれがいつでも可能であることを知っていたし、なんなら今目の前にシリウス・ブラックが座っている。随分と長い距離を泳ぎ、姿あらわしをしてここへ来たと言っていた。そして、粗末な服を脱ぎ捨てて、父が着ていた服を貸し、風呂に入り、そして今、目の前でがつがつと私が用意した食事を食べている。

此処は、家がいくつか所有している、魔法生物研究のための小屋だ。魔法使いもマグルも寄り付かない、ただ鬱蒼と茂る森の奥深く。家以外の人間は、一部の騎士団員しか知らないし、家の人間がいないと中には入れない。そういう魔法がかけられている。私はつい数十分前、この小屋の近くにシリウス・ブラックが来たという知らせを受け、急いで近くの町まで煙突ネットワークで飛んだ。そして、連れてきた梟に頼んでセストラルを呼び、小屋の近くまで来て、シリウス・ブラックと再会した。まともな食事をしばらくしていなかったという彼に食事を作り、その間に彼は身なりを整え、そして今、優雅さの欠片も感じられない様子で食事をしている。
無くなりかけていた水を補充するため、わたしはキッチンへ戻って水を補充した。


「悪いな」
「! いえ、そんな」


そんな労いの言葉が出てくるとは思わず、もごもごと言葉にならない言葉しか口から出てこなかった。世間一般的な、快楽殺人者のイメージとは随分とかけ離れている。キッチンから香ばしいにおいが漂ってきて、すぐにそのリビングから離れられて助かった。自分の夕飯にする予定だった、チキンが湯気を立て、姿を見せた。たっぷりの調味料に一晩漬け込んだそれを楽しみにしていたのに。まさか今日こんなことになるとは思っておらず、それを皿に載せた。あの勢いなら、このくらいすぐに食べてしまうだろう。その考えは、数分後に当たっていたと分かるのだけど。


「なあお前、名前は?」
「あ、えっと、です。――ブラックさん」
「ファミリーネームはやめてくれ。シリウスでいい」


シリウスさん、と呟く。そういえば、ブラック家は著名な純潔の一族だったなあと考える。例のあの人と敵対していたのだから、家族とも折り合いが悪かったのだろう、と容易に予想がついた。
大量に持ってきたパンもパンプキンスープもチーズも、チキンもサラダも、ぺろりと一食で平らげてしまった。ごくごくと水を飲んで、ふうと一息ついた。


「美味かった。ありがとな」
「いえ、あの、おじいちゃんの命令に従っただけなので」


綺麗に空になったお皿を、そうっと重ねてキッチンへと持っていく。食後にコーヒーでも淹れるべきだろうか。お皿を洗いながらそう考えていると、背後から音を立てずにその人が声をかけた。


「おい」
「ひいっ」
「……あっぶね」


驚きすぎて、洗っていたお皿を一枚落としてしまった。それはシリウス・ブラックが受け止めてくれたおかげで割れなかったけれども、あまりにびっくりして、心臓が止まってしまうかと思った。呆れたようにため息をつくその人は、お皿をキッチンに置いた。私は、洗い物をする手を止めて、その人を見上げる。


「な、なにか用ですか?」
「オーランドは此処に来る予定あるか?」
「お祖父ちゃん、ですか? 最近はずっとドラゴンの研究で帰ってきてなくて。一応このことは連絡しましたけど、まだ連絡が帰ってきてないです」
「そうか。で、ここは安全だと考えていいのか?」
家の所有してる建物はすべて、魔法省の管理から外れているそうなので、仮に魔法省の役人がこの部屋に入ってきてあなたを見つけたとしても、捕まえる権利はありません。また、この小屋にはありとあらゆる保護魔法がかけられていて、マグルも魔法使いも、魔法生物すらも認知できません。認知できるのは、此処に小屋があると知っている者だけ、です。そしてそれは、家の人間と、騎士団の人間だけ、です」
「ならいい」


シリウス・ブラックはそれだけ言って、リビングへと戻っていった。わたしは、少しの間呆然としてしまったけれども、すぐにお皿洗いに戻った。
違うと分かっていても、世間では殺人鬼だと言われている人とふたりきり。どうにも気を張ってしまう。


「どうしよう」


ぼそりと呟いた言葉は、きっとお皿洗いの水の音で誰にも聞こえていない。前に言っていた通りに動物もどきになる訓練を受けさせてもらえるのかとか、家の店番や今いる魔法生物たちのお世話があるのにとか、ぐるぐると考える。
シリウス・ブラックがどういう人なのか、まだまったく知らないし。まだ夏休みは始まってからそう経っていない。先日、ウィーズリー家がガリオンくじグランプリを当ててエジプトに行くと聞いたばかり。それを聞いた瞬間はいいなあと思ったけれど、今この現状を考えたら本当に羨ましい。


「一緒に行けたらよかったのに」


もちろん家族水入らずの場に私なんかが行けるはずはないのだけど、そう思ってしまうくらい、陰鬱な気分になっていた。



2019.1.13 三笠