ココアと彼と台風一過


冬の雨は痛い。雲は太陽を覆い、雨粒は体温を奪う。寒い寒い冬をさらに寒く演出する雨はどちらかと言わずとも早めにご退席願いたいものだ。
でもその雨は昨夜から降り続け、今朝もまだ降り続いている。ああ、気持ちが落ちる。
いつもと同じ朝食を食べ、いつもと同じように頑固な寝癖を直して駅へと歩く。激しく降る雨を傘がはじく。あまりに勢いが強くて、機関銃のような音だった。もちろん本物の機関銃の音なんて聴いたことないからイメージだけど。
ばばばばば、と傘と雨がぶつかって弾いていく。どんなに傘が頑張ってくれたところで、すでに濡れた地面を歩くと、飛び跳ねた泥や水が靴下にはねて濡れてしまう。
濡れた靴下から足が冷えて、徐々に自分の体温が下がっていく気がした。どろりどろりと雨に、泥に触れて、自分もなんだかその一部になってしまうような気がした。感染だ。感染してしまう。
そんなわけねーだろ、と否定してくれるあいつに会いたくなった。




「雨、つえーな」


朝練の準備運動中、ぽつりとつぶやいた言葉は、思っていた以上に大きかったらしい。
準備運動をしつつ、窓を見たり音を聞いたりして、誰もが雨の存在を確認した。


「確かに、夜からずっと降ってる割に勢いあるな。朝には止むと思ってたのに」
「…お前、天気予報見てねーのか? 台風近づいてるらしいぞ」
「なにっ!? それは本当か、日向」
「本当だよ。そのうち風も出てくるんじゃねーか?」
「そうなったら大変ね。スケジュールも狂うし…。夜にでも過ぎ去ってくれればいいんだけど…」


ざわざわと話し出す周りの声を聞き流しながら、俺の脳裏には一人の女の姿が過っていた。
あいつ、雨苦手だったよな。
今頃鬱々としながら職場へ向かってるんだろうか。7つも離れた大人の女に対してこんな心配をすることではないだろうけど、あの人のすべてが大人なわけでもないし、俺だって全部が全部子供なわけじゃない。きっと誰だってそうだと思う。誰だって怖いもんはあるだろうし、誰だって好きなものの前では平常心じゃいられない。


「あいてえな」


今度こそ誰にも聞こえないようにつぶやいた。
思い浮かんでしまったら、やはり平常心ではいられない。練習が終わったら会いに行こうか、と心に決めて、柔軟を始めた。






カーテンを完璧に閉めきって、暖かい部屋で暖かいココアを啜った。
ミルクと砂糖をたっぷり入れて、数日前に買ったきりの雑誌を捲る。美人はなに着ても似合うからいいよなあ、なんて皮肉めいたことを考えながら、ずずっとココアが口の中に広がった。
甘ったるいそれは今頃私の口から喉を通り胃を茶色く染めていることだろう。
雨に濡れた服はとっくに脱いで洗濯籠に。傘は玄関で水たまりを作っている。冷えた体はお風呂で暖まった。それなのに、まだ。
じわりと染みを作った雨が服を通して自分にまで伝染しているようだ。
ふうとため息をついた。

今夜は大荒れの予報。
台風が通過するから風はどんどん強く、雨も強くなっていく。
こんなに降ったら地面がすべてびしょ濡れで、雨を吸ってぐちゃぐちゃになって、そのうち海になっちゃうんじゃないのって思う。そしたら?そしたらどうなるんだろう。
きっとたくさん人が死んで、文明が生み出した素晴らしき電化製品たちは使えなくなって、海におぼれてすべて死ぬんだ。
私が20年を経て手に入れたすべてが。何千年、何万年かけてここまで進歩させた人類の歴史がおわる。
雨は地球からの攻撃だ。天候は、震災は、増えすぎた人類を減らすための地球からの攻撃だと思う。でも、それである程度の均衡は保たれているように思う。増えすぎたら困るからある程度抑制しないといけない。けど人類同士でそれはできない。倫理的な問題で。
だから天候が。なんて、そこまで考えて気づいた。なんて、人間的な考え方だろうって。
地球に意思があったとして、何億年もかけて今の地球になった地球に、人間の繁栄なんてどうでもいいだろう。それこそ変化の一部であって、きっとまた数万、数億年経った未来に、人間なんて存在しないんだ。
そう考えたら、少しだけ気が楽になった。
いつか死んでしまう生物が、いつ死のうがあまり変わらない。


そんなくだらないことを考えていたら、玄関から軽い電気音が聞こえた。ピンポン、と間抜けな音が1回、2回と繰り返される。
なんかいやだな、と思いながらインターフォンに映し出されたその人の顔を見た。
真っ赤な短髪に意志の強そうな太い眉。制服姿の高校生がそこにいた。
一瞬迷いながらも、インターフォン越しに声をかける。


「なに」
「お、起きてた」
「起きてるよ。今何時だと思ってるの」
「起きてるなら入れてくれよ。外さみーんだって」


夜中に女の一人暮らしの家に来るなんてどういう神経しているの、と言ったら「そういう関係でもねーだろ」と言うから、ご尤も過ぎて反論もできない。
だからその言葉になにも返さず、チェーンと鍵を開けて、無言でソファに戻った。
濡れた傘はやはり玄関に。私よりずっと大きな体を持ったそいつはやはり肩や靴下を濡らしていた。


「前に置いてったジャージ、出しとくからお風呂入っていけば」
「ん、そーする。さんきゅ」


勝手知ったる家で遠慮なんて必要ない。大我はまだ多少は温かいままのお風呂を追い炊きしてから入って、髪や体を洗って、置き去りにしているジャージに身を包む。
湯気を出しながら出てきたころには、私は2杯目の、そして大我には1杯目のココアを淹れた。


「明日、台風来たら学校休み?」
「6時に暴風警報出ていたら休み」
「フーン、私は普通に出勤。電車が動いてなかったら多少の遅刻はOKだろうけど」


隣同士のソファに座って、お互いにココアを啜る。
大我は一口飲んで一言「あっつ」と言ってしまった上に、「甘…くねーか」と呟いていたけど、私はスルーした。私に任せたんだから私の味覚に合うものを出されても文句言えないはずだ。


「なんで来たの」
「あ?」
「こんな日に来ることないじゃない。明日が休日ならともかく」


まだ火傷しそうなくらい熱いココアにふうふうと息を吹きかけて冷ます。
大我は少しだけこちらを見て、そしてすぐに視線をそらした。
横顔を覗くと、視線の先にはただのココアなのに、なんだか真剣な顔をしていてどきっとした。あ、こんな顔するんだ、なんて今更気づいた。


「あんたが、来てほしいかと思って」
「は?」
「…いや、つか、そうじゃねえや。俺が来たかったから来ただけだよ」


まだ湿気を含む頭をかきながら、なんでもなさそうに大我は言った。
別に来てほしいなんて思ってなかったわよばか。と心の中で強がっておいて、結局のところなんだか嬉しくなってしまって、その顔を隠すようにずずっと音を立ててココアを啜った。


「明日にはやんでるといいよな」


ぼそりと聴こえた言葉に返すかどうか一瞬迷った。
正直なところ、ほんのちょっとだけ、こいつのこんな様子が見られるのなら雨も悪くないと思えていた。きらいきらいと思っていたはずの雨だったけど、大我がこんなふうに駆けつけてくれるのなら、少しくらいなら好きになってやってもいいかもしれない。

けどやっぱりきらい。
大我の肩に頭を預けて、ふうと小さく息をこぼした。



ココアと彼と台風一過



2012.11.09 三笠