最悪の夜でした


海でも陸でも、何度となくその顔を見て拳銃を構えた。
その度に逃げられたり戦闘不能に陥ったり、とにかく私は一海兵としての役目を果たせずにいたわけだ。
だけど今日こそはと、私は偶然発見したポートガス・D・エースの背中を見ながら決心した。
ポートガスは既に夕食を済ませ酒を浴びるように飲み、宿へと向かうつもりであろう。
ここ数ヶ月、ポートガスが白髭の下を離れ、一人で行動しているのは調査済みだ。これはまたとないチャンス。逆に言えばこの時期を逃し白髭の下へ戻ってしまえば、ポートガスを捉えることは格段に難しくなってしまう。
今夜の宿さえ知ることが出来れば、軍へ戻って報告――そして隊を引き連れて捕縛すればよい。いくらポートガスであっても、酒に酔った状態で滞在する全部隊に勝てるはずがない。


「…にしても、こっちに宿なんてあんまりないはずだけど」


工房が多く観光民は殆ど足を踏み入れない工業エリアへと、ポートガスは足を踏み入れていた。宿どころか、飲食店すら少ない。
しかしポートガスは迷わずこちらへ進んでいるようだった。…もしかして、罠なんじゃないか、と頭に過ぎる。
今日は非番だったから無線を持っていない。護身用の銃はあるが、奴相手には心もとない。連絡を取るには隊に戻らないといけないが、かといって此処で目を離せばまた何処かへ行ってしまう。

ポートガスがふらりと細い小道へ入るのを確認した。一瞬、追うか戻るか判断に迷い――、そして、追った。
足音を立てず、素早く道を覗き込む。しかし、


「なんだ、誰かと思えば海軍史上最年少の女性少佐、少佐じゃねえか。久しぶりだな」
「! ポートガス・D・エース!」


曲がってすぐに飛び上がったのだろう。低めの建物の屋上に奴は座って覗き込んでいた。奴の背後には済んだ夜空と輝く三日月が見える。すぐに銃を構えるが、どう考えても向こうが有利。
不覚だ。まさか気付かれていたなんて。


「こんな夜更けに1人で男の後を尾けるなんざ、レディのやることじゃねえぜ?」
「レディじゃなくて結構だわ。私は貴方が言ったとおり、海軍少佐だもの。私は海賊を1人でも多く捕縛することが使命! 観念しなさい、ポートガス!」


こちらを覗き込むポートガスは余裕そうに笑みを浮かべていた。
私は一時焦った感情を落ち着かせようと何度か深めに呼吸をして、それから覇気を銃に込めた。いくら能力者だって、覇気は有効だ。能力者でない私はむしろ覇気を使った戦闘以外で奴と渡り合うことは出来ない。


「黙っていればいい女なのになァ…もったいねえ」


奴が呟くのが聞こえたが、無視をして睨み上げる。
すると、一度ため息をついたそいつが、ふらっと立ち上がった。あ、と思うより早く、奴はこちらに飛び降りた。


「……ッ」


降りるそいつに向かって3発の弾丸を撃ち込むが、向こうは能力者でありながら覇気だって使える。命中はするが、致命傷どころか掠り傷程度にしかならない。ならばと着地してすぐのそいつに頭に蹴りを入れるが、右腕で軽くいなされ、逆に銃を持った腕を掴まれてしまった。


「こ、の!」
「おっと、相変わらずのじゃじゃ馬だな」


掴まれていない方の腕でもがきつつ、足でもう一度蹴りを狙うが、それも簡単に押さえ込まれてしまう。身体の動く部分全てで反抗しようとする私を面倒くさいと思ったのか、やつは私を押し倒し、両手首をまとめて掴み、足は自分の足を絡ませて動けないようにしてしまった。思わぬ近い距離感に一瞬眩暈がした。


「はっ、放しなさいよ!」
「イヤだっつの。お前、放したら攻撃してくんだろ」
「当たり前よ! 私と貴方は敵同士なの!」
「……相変わらずの堅物だな」


そう言うのとほぼ同時に、奴は私の唇をふさいだ。
話すどころか呼吸することすら、ううん、思考すら止まってしまった。
だって、私の唇を塞ぐのは、憎きポートガスの唇だったから。
一瞬で自分の身体が、顔が上気するのがわかった。感じたんじゃない。敵にこんなことをされた自分の弱さに羞恥した。


「…ッ」


暴れてみようとするがやはり身体は動かない。顎を押さえられて、首を振ることすらできなかった。重く圧し掛かる鍛えられた身体が憎たらしい。
時折角度を変えて、ねっとりした唇が、舌が、私の唇を味わい尽くす。丁寧に舐めて、吸って、離れたときには私の息は上がり、睨み続けた目からは涙が零れそうになっていた。


「っな、なんて、ことを…」
「ン、うまそうだったから、つい」


首筋に舌が這って、ぞくりと背筋が震えた。
曝け出された頚動脈をなぞり、歯を立てられる。ちくり。甘噛みに近いそれは、いつでも殺せるという一種の脅迫に近いものを感じ、きっと恋人同士だったら甘い行為なのに、恐怖がどこまでもまとわりついていた。


「お前、夕飯食ってる時からずっと俺のこと尾けてきてたろ」
「は、初めから、気付いてたの?」
「ンー…? いや、お前の尾行は完璧だったさ。ただ俺の方がお前を先に見つけてたからな。尾けてくるだろうとは思ってた。1人で来たのは嬉しい誤算だったな。今日非番だったんだろ? 悪ィことしたな」


ちっとも悪びれずに、ポートガスは言った。
そして顎を押さえていた手を放し、私の身体をまさぐり始める。まさか、と思うけど、服の中に入ってくることはなく、表面を愛撫するだけだった。


「非番の海兵と、退屈な海賊。一回くらいいいと思わないか? 刺激的な夜になりそうだ」
「バカなことを言わないで頂戴! アンタなんかと寝るくらいなら、いっそ身投げしたほうがマシよ!」


死と隣り合わせのこの仕事に、誇りを持っている。この男社会の中で少佐にまで登り詰めた自分自身にも。
だからこそ、それらが全て傷つけられて冷静ではいられなかった。

ポートガスはやれやれとでも言うように深くため息をついた。


「冗談やその場のノリで言ったんじゃねェのにな」
「…は?」

「頭はいいし弱くもねェ。海軍じゃなければ、って何度思ったことか」


ひとり言のように呟く中で、ポートガスは私を見ていた。私も、そいつを見ていた。


「ま、今日はこの辺にしとくさ。もし気が向いたら、いつでも、いくらでも相手はするから、覚えとけよ」


ちゅ、と最後に耳元に唇を落として、そしてすぐに何処かへ立ち去ってしまった。
押さえつけられていた身体が自由になって、それでもまだ動悸がして、きっとこの出来事から解放されるときはずっとずっと先なんだろうと悟った。



追いかけて追い詰められて




動悸の原因は羞恥によるものではない。それに気付いた瞬間、自分の唇を思い切り噛んだ。

2012.8.22 三笠