赤髪の声が耳に届く。 けれどその声を軽く受け流して、私はいつも変わらない日常へと舞い戻った。 まだ夕方だ。 夕飯にしようと思って竈に入れたパイがそろそろ焼きあがるころだし。 さっさと他の料理も作って、夕飯食べて、眠りたい。 あ、救急箱はどこだっけ。 その前に洗った方がいいし、消毒も―――。 そこまで考えたところで、勢いよく家のドアが開いた。 「ちょっと待てよ、おまえ!」 「…なによ」 思わず睨んでしまって、一瞬しまったと思った。 あんまり敵意がないから油断していたけど、そう言えばこの人たちは海賊だっけ。 「怪我してんだろ? 手当てしてやるからちょっとこっち来いよ」 「別に要らない。自分で出来るし。貴方はさっさと船乗って次の島にでも行けば?」 「…随分冷てェな。海賊とは言え初対面だぞ? おいベック、船医呼んで来い!」 結構だと言っているのに、赤髪は部下に、医者を連れて来るように命令していた。 溜息をついて、台所で傷を洗う。 じんじんと痛むけど、もしもなにかの菌が入って寝込んだりしたら嫌だし。出来るだけ念入りに洗って、蛇口をひねって水を止める。 白いタオルで水を拭き取るけど、まだ血が止まっていないせいで、じわりとタオルに赤い染みを作った。 「…ほら、痛いだろ。ちゃんと手当てしねェと、」 「痛っ…、さ、わんないで」 「触られたくないなら、抵抗しないでこっち来い。俺たちの所為で怪我したんだろ。手当てぐらい、させてくれ」 怪我した右腕には触れずに、左腕を掴まれて。 不意に見上げたその顔が、見たこともないくらい真摯で。 何故だか、昔亡くなった母を、思い出していた。 けど、すぐにその記憶を振り切って、俯いた。 母はもういない。この人は、全然、関係のない人、なんだから。 「…あなた、赤髪でしょ。最近指名手配された…」 「お? なんだ、知ってたのか」 「何をして、手配されるようになったかは知らない、けど!」 掴まれていた左腕を無理やり振りほどく。 元々、そんなに強く掴まれていたわけではないから、それは酷く容易かった。 いっそ、名残惜しい、くらいに。 「でも、指名手配されるような人間なんでしょ。そんな人に親切にされる筋合いないし、貴方達が欲しがるようなものは此処にはないわよ。…っだから、さ、さっさと帰ってよ」 「…ンなこと言われてもなァ…」 赤髪は軽く頭を掻いて、視線を少しだけ彷徨わせた。 何かを考えているような素振りをしていて、私はなんだか興奮してしまった自分を落ち着けたかったのに、“彼が何を考えているのか”を考えることに必死になってしまって、なにひとつ落ち着くことが出来なかった。 「お前が怪我をしているから手当てをしたい。そう言ってるだけだぜ? 俺が海賊だってだけで、そこまで信じられねェか?」 「し、信じられるわけないでしょ!? だって、海賊は…っ」 「ん?」 海賊は、ともう一度小さく呟いて。 その後の言葉を紡ぐことはできなかった。 会ったばかりの海賊に、自分の弱みを見せるなんてこと、できるはずがなかった。 「んー…まァ、いいや。おーい、早く手当てしてやってくれ」 「! だから、要らないって」 「おー、狼に噛まれたんだってな。その娘か?」 開けっ放しになっていたドアから、白衣を着たおじさんが入ってきて、一瞬ぎょっとする。 海賊に常識を期待したって仕方がないけど、不法侵入も程々にしてほしい。 と、そこまで考えていた隙に、なにやら赤髪は私の背中からお腹に腕をまわして、まるで米俵でも持つように、片腕でひょいと抱き上げてしまった。 そのまま、ドアの方向に歩きだす。 「っちょ!ちょっと赤髪!!?」 「俺の名前はシャンクスだって言ったろ?」 「そ、そんなのどうでもいいわよ!お、降ろしてよ!」 その声を聞き入れられたのかどうかは知らないけど、それからすぐに、彼は私を下ろしてくれた。 ただし、椅子の上に。 すぐに白衣を着た、多分船医が駆け寄ってきて、腕に触れてくる。 一瞬迷って、でも、私は思いっきりその手を振り払った。 「手当てなんて、要らないって言ったでしょ」 「あとで自分でするんなら、やってもらったほうがいいじゃねェか」 「そうじゃなくて!」 そう、そうじゃない。 この人が、ただの医者なら。 船になんて乗っていなくて、ましてや海賊なんかの仲間じゃなかったら。 それだったら、此処で素直になれたかもしれないのに。 「医者だって、海賊でしょ!? 人の命取って生きているような人間に、手当てなんかされたくないって言ってるのよ!」 言った瞬間に、目の前の人の眉が釣り上ったのが分かった。 怒らせたかも、と思ったけど、けどそんなこと気にしたって仕方がない。 もう言ってしまったことだし、今さら訂正なんて出来ないし、したくもない。 船医は、黙って消毒液の準備をし、私の腕を掴んだ。 ピリッと痛みが走るくらい、強い力で。 「、だから」 「うるせえ、黙って治療されろ!」 はあ、と大きくため息をつく、目の前の船医。 声の大きさに、びくりと震えた身体は、なんともいたたまれもなくて。 反抗しようと何か言おうと思っても、何を言っていいのか分からずに、口を閉じる。 なによなによなによ、私間違ってないじゃない。あなたは医者かもしれないけど、海賊でもあるのよ。人殺しの集団よ、世界を騒がす大悪党よ、そんな人に手当てなんて、されたくないわよ。 「チッ、なんだお前、海賊に怨みでもあんのか」 「…あなたに関係ないわよ」 「でも、それを俺たちに当たるのは逆怨みってやつじゃねえか」 逆怨み。 そう言われてみたら、確かにそうかもしれない。 けど、『正義』の文字を背負う海軍が追いかけているような海賊は、どれも同じように『悪党』じゃないの。 怨まれたって、嫌われたって、しかたのないことをやっているんじゃないの。 消毒液を含んだ綿が傷口に触れ、痛みが全身に走る。 腕を振り払うにも、力を込めて掴まれた腕は動かず、仕方がないから私は、痛いという言葉も動作もなにもせず、ただひたすら耐えた。 こんな人たちに、弱みを見せるなんて、まっぴら御免だから。 「逆怨み、かもしれないわよ」 「………」 「けど、それ以外に怨む対象がいないんだから。あんたたちが好き勝手する代わりに、その対象くらいになってくれてもいいじゃないの」 この人たちがどんなことをしてお尋ね者になっているのかは知らないけど、今のところは悪い人かどうか判断できない。 けど、今治療をしてもらっていて、私自身は怒られてもしかたがない態度をとっていて。 少しだけ、罪悪感が芽生えた。 「…お前、此処に一人で暮らしてンのか? 見たとこ、まだ20かそこらだろ」 「………そうよ。10年前からね。ちなみに、今19歳よ、20までいってない」 「ふーん。にしても、なんでこんな海賊に狙われやすい場所に住んでんだよ。街に住めばいいじゃねェか」 後ろに立っていた赤髪が、さらりと言った言葉に、どきりと心臓が高鳴った。 「…余所者は歓迎しないって言ったでしょ」 「…ああ、そうだったな」 「わざわざ海賊に狙われやすい場所に住んでいるのは、むしろ狙われるためだとしたら?」 真っ白で清潔な包帯が腕に巻かれていく。 船医の手の動きを見ながら、気だるく口を動かす。 「余所者が住めるような家は此処しかないのなら、たとえ海賊がしょっちゅう来るような場所であったとしても、住むしかないじゃない」 大嫌いな海賊が寄りやすい場所であると分かっているけど、此処しかないのだから。 誰とも会わず、誰とも話さず、ただ毎日過ぎるだけだとしても。 ただ生きるだけ、であったとしても。 私には生きなくちゃいけない理由があるから、だから、生きている。 「…街の人間は、私が死ぬことを願っているけど。だから此処に住むように言ったんだろうけど…」 包帯を巻き終わって、紙テープで止められた。 手荒く止められて、漸く腕を掴む手から解放されて。 ふ、と小さく息をついて、立ち上がった。 「…終わったんなら、出て行って。海賊なんて、嫌いなの」 ああとかうんとか、なんだかよく聞こえなかったけど、そんな言葉を吐く赤髪と船医と、ドアを開けっ放しにしていた海賊どもを追い払う。 なんであんなことを言ったんだろう、と思いながら。 包帯を巻かれた腕を、そっと擦った。 2010 3 30 三笠 |