小さめの酒樽を3つ、荷台に詰め込む。 それを、彼らの船に持っていくのには、随分と勇気が必要だった。 「………放っておけばいいんだろうけど…」 けど、彼らは私に危害を加えなかったし、むしろ怪我の手当てをしてくれた。 有難迷惑ではあったけれど、一応は恩人と呼ぶべき人間だろう。 海賊に良いも悪いもないとは思うけど、彼らは、赤髪海賊団は、積極的に悪事を働くような人間ではないことは分かった。 少なくとも、10年前に母を殺した、あの海賊とは違う。 あんな奴らとは、違うんだ。 それだけ分かれば、あとはもう罪悪感しか残らない。 我ながら酷い態度を取ったものだ。 いくら相手が海賊で、家に不法侵入してきたとしても、あんな態度では母に叱られてしまう。 ちゃんと、謝りたい。 そう思って、彼らの欲しがっていた酒を、彼らの船に持っていくことにした。 警戒されるだろうけど、捨てられてしまうかもしれないけど。 それでも、誠意だけは見せておきたい。 もう二度と会わない人間だとしても、借りなんて作りたくないし。 見張りをしていた船員の一人に声をかけて、酒樽を預けて、すぐに帰る。 そっけなく、「昨日、手当てをしてくれたお礼です。赤髪――、船長さんに伝えてください」といった言葉を残して。 家に帰って朝食の準備をしているとき、きっとそのうち彼らは次の航海に旅立つのだろうと、そんなふうに軽く考えた。 なんの未練もない。 すぐに記憶から消えるであろう、一日。 そう、思っていたのに。 「おーい、ー。いるか?」 ドアを叩く音とともに、そんな声が聞こえた。 ひどく呑気で、軽薄で。ゆるやかな低い声色。 何故ここにいるの、そう思って。 一瞬居留守をしようかとも思ったけど、急いでドアの元へと駆けた。 ゆっくりと、ドアを開ける。 「お、居たな」 「な、なんで居るの。もう出発したんじゃ…っ」 「誰もそんなこと言ってないだろ?」 二カッと笑みを浮かべて、短く乱雑に切られた赤い髪が揺れた。 麦わら帽子の後ろに見える日差しが眩しい。 「…なんの、用」 「酒、くれただろ」 「それは、ただ…、あの、あ、謝りたいと、思って」 彼の眼を見て言うことはできなかった。 視線を逸らして、しどろもどろになりながらも、そう伝える。 怪訝そうに、彼は首を傾げたけど。 「謝る?」 「…昨日、確かに私の態度が悪かったから。貴方に不快な思いをさせたでしょ。…ごめんなさい」 誰かに謝るなんて、初めてのことじゃないだろうか。 母親以外の誰とも話したことがなかったから、多分そうだ。 赤髪は一瞬呆けて、それから口の端を釣り上げた。 「なんだ、そんなこと気にしてたのか?」 「そ、そんなことって何よ! 私はすっごく悩んでたのに!」 「俺は気にしてねえよ」 さらりと彼はそう言った。 変わらない笑みを浮かべて。ただ優しく、鷹揚にそう言った。 「な、だからいいんだ。お前が海賊を嫌いなのは分かったし、なんか理由があってああいう態度を取ったんだろ。だから、お前は気にしなくていいんだ」 「………そう」 聞こえないくらいに小さく、私は頷いた。 そのとき赤髪は、ふっとゆるく息をもらしたから、きっと聞こえていたのだろう。 少しだけ静かな空気が流れて、そして私は思い出す。 「…朝食、食べてきた?」 「ん。ああ、軽く」 「そう。…なら、要らないわね」 彼に背を向けて、キッチンへと歩き出す。 竈に入れたパンはいい色に焼けて、香ばしい匂いが漂っている。 それを一人分に切り分けて、お皿に移した。 「…ちょっと、分けて貰っていいか?」 はにかみ笑いを浮かべながら、赤髪はそう言って。 「最初からそう言うと思ってたわよ」 私は、余裕たっぷりにそう言い返してやった。 誰かと食べる食事は、随分と久しくて。 彼の食べる量に驚いたり、彼の今までの航海について聞いたり、“楽しい”ってこういうことだったかなあ、なんて。彼の笑顔を見ながら、思った。 「なァ、お前はどうして此処に住んでンだ?」 朝食後、洗い物が終わって本を読んでいた頃。 未だに部屋に居座っていた赤髪がそんなことを訊いてきた。 少しの間目を瞑って、ふうと息をついた。 「此処にしか居場所がないから、…此処にいるのよ」 本にしおりを挟んで、優しく閉じる。 このちっぽけな本にだって居場所はあるのに、私の居場所はここだけ。しかも、誰もいない、誰にも歓迎されない、こんなちいさなちいさな、森の中のおうちだけ。 「みんながみんな、貴方みたいに沢山の人に囲まれて楽しく遊んで暮らす人ばっかりじゃないのよ」 「俺だって、最初からあんな大所帯だったわけじゃねェさ。お前だって、その気になれば島を出ることだってできるだろ」 さらりと言葉を紡いでいく赤髪は、自分の言葉になんの疑問も持っていない。彼みたいに人を引き付ける魅力があって、強くて、力があって、やりたいことがあって。そんな人には、私のことなんて絶対に理解できない。 「…島の外になんて、出られない」 「船がないからか? それなら―――」 「船なんて作ろうと思えば作れるわよ。そうじゃなくって、」 ああ、言ってしまっていいものか。これを言ったら、あなたは私をどう思う?さっきまでと変わらず、同じ“人”として接してくれる?それとも――― 「私は、世界政府に追われているから。だから、外なんて、行けない」 赤髪は一瞬目を見開いて。 そして、ゆるりと笑みを浮かべた。 なんで、なんで笑うの。私を、賞金にでも変えるつもり? いつの間にか冷や汗をかいていて、汗ばんだ手をぎゅうと握りしめていた。 「なんだ、それだけか」 だから、そんな言葉を彼が吐いた時、私は思わず立ち上がってしまった。 膝の上に乗っていた本が床に落ちる。バサリ、と乾いた音が耳に届いた。 「それ、だけ? なによ、なにが“それだけか”よ。政府の所為で私がどんな想いをしているか貴方は知らないくせに、そんな簡単な言葉で片付けるなんて「俺だって、政府に追われる身だからな。世界政府なんかに怯えて、こんな島に引きこもってるお前の気持ちなんざわかんねェさ」 私の言葉を遮って、彼は言う。 世界政府なんて怖くない。怖いのは別のものだって、そう言ってしまいたい。 けど、そこまで彼に話すことはできない。私は彼をそんなふうに信じられない。 「あなたなんかと、一緒にしないで…!海賊のくせに!無法者の集団のくせに! なんで、なんで、あなたみたいな人が、」 こんなところにいるの、そう言ったはずだった。怒鳴ったはずだった。それなのに、本当にそう言えたのか分からなくなった。目が熱くて痛くて、ツーンとして、温い水滴が頬を伝う。泣いてるって理解する前に、急いで顔を覆った。 なんで私は泣いているの。どうして、どうして。 そう思うけど、あふれる涙は止まらない。 赤髪の目の前で、なんて情けないのだろう。大嫌いな海賊の前で、どうして私は泣いているの。 「なに、よ なんでよ」 赤髪が、ゆっくりとした歩みで私の前に立って、そっと私の髪を撫でた。 大きなごつごつとした手が、ゆるゆると私の髪を撫でる。その手つきがやけに優しくて、余計に涙がとまらなくなった。 「…お前、今まで相当我慢してきたんだろ。溜めこむにも限界があるんだ。泣けるなら、思い切り泣いちまったほうがいい」 いやいやと、首を振る。 貴方の前でなんて、泣けない。 赤髪の手を振り払おうと腕を伸ばした時、ふと右腕に巻かれた包帯が目に入った。 拭った手についた涙が腕を伝って滑り降りて―――、包帯に染みて傷口に、触れ て、 「っ嫌…ッ」 赤髪の傍から飛び退いて、怪我をした右腕から流れた涙を取り除く。 けど、既に包帯に染みを作った涙は、もう戻らない。 滑り落ちた涙が傷口に触れて、じわりとそこに生温かい感覚が広がった。 瞬間、傷がじんじんと熱くなる。 やめて、私は普通の人間で在りたいのに。なんで、こんな人の目の前で、こんな、こんなこと。 「おい、痛むのか!?」 「や、嫌、」 「ちょっと包帯とるぞ、」 赤髪は乱暴に私の右腕をつかんだ。突き放そうとしても逃げようとしても、彼はびくともしなくて。 彼は嫌味なくらいに優しく、私の包帯を取っていく。 「赤髪ッ、だめ、見ないで…っ」 「ちょっと黙れ、昨日の傷が、」 包帯がするりと奪い取られ、私の腕が露わになる。 そして、赤髪が息をのんだ。 信じられないのだろう。私だって、信じたくない。見たくない。 だって、そこには、 「傷口が…、無ェ」 ぼろぼろに流した涙は、みっともなく私の顔を汚して。 私は、思わず床に座り込んだ。腕は赤髪に掴まれたまま。 「ありえねェ…。どうして、」 赤髪の呟いた言葉は、私の耳に届いていた。けど、返す言葉も何もなかった。 涙は止まらない。気付きたくなかった。気付いてほしくなかった。 私は普通の人間じゃなくって。それをあなたに気付いてほしくなくって。掴まれたままの腕を、離してほしくなんてないって思っていることなんて。 時折しゃくりあげる私だけが、この空間で唯一、音を発していた。 彼は動かない。私の異常さを知ったから。 私は泣きじゃくる。彼に、私の異常さを知られてしまったから。 なんであなたみたいな人がこんなところにいるの。なんであなたみたいな人が私の目の前に現れたの。放っといてくれたら良かったのに。そうしてくれたら、私が、こんな情けなくて弱くて、ひどく小さな人間だって、思い知ることなんてなかったのに。 私が、普通の人間じゃないって、思い知らなくて済んだのに。 ねえ、どうしてあなたは、わたしのまえにいるの 2010 4 25 三笠 |