(見ないで…っ) そんな悲痛の声が今も耳に残っている。 「なぁ、ベック。傷を治す涙って知ってるか?」 船首に座って、空を見上げながら、俺はそう訊いた。 青い空が広がって、緩やかに吹く風で海賊旗が揺れる。 「傷を治す涙? まさか、“悲劇の一族”のことを言ってるんじゃねェだろうな」 「悲劇の一族?」 そう繰り返して振り返ると、ベックは煙草を吸いながらこちらへ歩いてきた。 船のへりに背中を預け、俺に背中を向けながら口を開く。 「ああ。20年近く前に滅んだ一族だ。涙だけじゃねェ、唾液とか汗とか、そういう身体の分泌液でも傷を癒す効果があるんだと」 「なんで滅んだんだ?」 傷を癒す、そんな能力をもった一族がいたのならむしろ丁重に保護されて、生かされているはずじゃねえか。 そういう意味を込めて、俺はベックに訊いた。 ベックは煙草の白い煙を細く吐きながら、ゆっくりと話し始めた。 「…天竜人だ」 「はァ? 天竜人となんの関係があるって言うんだよ」 「天竜人があの一族を欲しがったんだと。だが、天竜人に捕まっちまったら一生奴隷として暮らすしか無ェ。だから、誇り高い一族は捕まる前に全員が自決したって話だ」 酷ェ話だと、ベックは吐き捨てるように言った。 20年前の話なんて俺はさっぱり覚えちゃいねえが、天竜人が関わっているのなら隠ぺいされてもおかしくないし、大々的に報道されてはいないだろう。 もしも、その一族が、あいつの、の一族だとしたら。 そう考えつつも、そうじゃないといいと、強く思った。 もしもそうだったら、あいつは本当に長いこと、独りだ。 「お頭。あの一族と関わるってことは、世界政府を敵に回すってことだからな」 「は? なにを今さら言ってやがる。俺たちは海賊だぞ? 政府なんか元々敵じゃねえか」 「そうじゃねえ。天竜人が狙ってる一族に手ェ出すってことは、お頭もこの海賊団も、第一級のお尋ね者にまで成り上がっちまう。アンタはこの船の船長なんだ。船員のこともちゃんと考えろ」 キツイ言い方でそう言い捨てて、ベックはゆるりと背中を浮かせた。 そしてようやく振り返って俺を見据える。 その眼は、いつになく真剣で、その言葉がすべて本気だということが嫌でも伝わってきた。 「アンタが言った“傷を治す涙”についてはなんも訊かねえ。俺が知ってることは全部話した。アンタがなにを考えてんのかは知らねえが、こんな何もない島でそう何日もいられねえ。早くこの先の航海ことを考えてくれ。…元々、食糧調達のために立ち寄っただけだろ」 「…そう、だな」 どうにもはっきりしないような言葉を返したら、ベックはやれやれとでも言うように一度首を振って、そして去って行った。 本当ならば今日中に此処を発つはずだった。 それを引き延ばしてしまっているのは俺自身。 もう一度だけ会いに行って、そうしたらもう此処を発とう。 他のクルーのためにもそれが一番良いと思い、俺はまた、の家へと足を向けた。 「おーい、ー」 「………赤髪、」 ノックもせず、の家に入ると、そこには以外にも人がいた。 屈強な男が二人と、腰の曲がったとっくに還暦は過ぎているであろう爺さん。 の家を訪ねるような人間がいたのか、と少しだけ唖然とした。 「なんじゃ。やはり海賊なぞと戯れておったか。さすがあの女の娘なだけはある」 その言葉の後、の纏う空気が豹変したのを感じた。 あの女、というのはきっとの母親のことだろう。 母親を馬鹿にされたように感じて憤るのは、俺もわかる。 「母のことは関係ないでしょう。赤髪は害意を感じなかったから放置しているだけ。戯れているわけじゃないわ」 「ふん、屁理屈を。おい、お前ら。少し痛い目を見せてやれ」 爺さんがそう言うと、如何にも怪力自慢とでもいう体格をした男が、の前に歩みだす。 なにをしようとしているのか分かり、すぐに止めさせようと足を動かそうとした。けど、その瞬間、の視線が俺を射抜いて。なんの恐怖も焦りもない真摯な瞳で俺を見るから。俺に動くなと言うから。 だから俺は、がなにをされるか分かっていながら、動くことが出来なかった。 男が拳で思い切りを殴る。 体重の軽いの身体は抗うでもなく、それによって壁まで吹き飛ばされた。 けほっと小さな咳が聞こえて、少しだけ血を吐いて。 それにも関わらず、男はの胸倉を捕まえて持ち上げ、を思い切り床へと叩きつけた。 小さな、細っこい身体が跳ねて。床に亀裂が入って破片が飛んだ。 そこまで見て、漸く俺は動いた。 男たちの、への“制裁”は続いている。 きっと、あの男たちなど歯牙にもかけないくらいは強いのに。 それなのに抵抗しないってことは、してはいけねェってことで。 そんなことは馬鹿な俺にも想像つくのに、動かないなんて選択肢はもう俺の中では消え失せていた。 もう、もういいだろう。 そう俺は自分の中で結論付けていた。 ここで俺が動いて、は迷惑に思うかもしれない。けど、今、は、俺と関わったことで制裁を受けているのだ。 抗うでもなく怒るでもなく、ただ、その身に痛みを受けているのだ。 自分の中に蠢く怒りが、発散されたくてうずうずしている。 ああ、こんなのはのためじゃない。俺のためだ。 俺が、があんな目に遭うのを見ていたくないだけなんだ。 ゆらりと足を踏み出し、遠くから彼女を見ていた爺さんを退けて、また一歩踏み出す。 「なんじゃ貴様! 島のことに口出しする気か!」 そんな言葉を言われた。けど、そんなこと頭に入らなかった。 血を吐いて、流して。 苦しんでる女がそこにいるのに、俺はなんで黙って見ていなくちゃいけないんだ。 の視線がまた俺に向けられて、そして漸く表情を変えた。 全てを受け入れたような、諦めたような表情から。驚きで目を見開いていた。 (あか、がみ) 小さな唇が、そう形作った。 声は聞こえなかった。きっと彼女は口を動かしただけだった。 今度赤髪なんて呼んだら、訂正してやろう。 “俺は赤髪じゃねェ、シャンクスって呼べよ。”そう言ってやろう。 そう言ったらはなんて顔をするだろう。 いつのまにかそんなことを考えていた。 怒りで俺ン中はいっぱいなはずなのに、どこかすっきりしていた。 きっと、ずっと考えていたことが全部片付けられたから。 を襲う男に向けて拳を振り上げながら、俺は決断した。 を、船に乗せていこう。 こんな窮屈な島じゃなくて、もっとに合う場所があるはずだから。 と一緒に、航海していきてェから。 一撃ずつ叩きこむだけで、男二人は倒れこんで。 そして、爺さんと一緒にこの家から逃げ去って行った。 爺さんは逃げるとき吸っていた煙草を床に落とした。 小さな火種が床を燃やし広がっていった。 パチパチと音を立てて、一気に火が広がっていく中、俺は倒れたの前に膝をついていた。 何も言わずに手を伸ばしたら、彼女はその手をじっと見つめた。 手は、重ならなかった。 (どんなにが遠慮したって、嫌がったって。俺はを仲間にしよう。こんなところにひとりきりで放っておけねえから。もっと近くで、護ってやって、もっと楽しいことも嬉しいことも全部全部教えてやりてえから) 2010 5 9 三笠 |