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助けないでって、言いたいのに。
どうして伝わらないの。どうして放っておいてくれないの。
どうしてこの唇は動かないの。どうしてこの喉はこんなに役立たずなの。


目の前で、私を殴って蹴って散々好き勝手していた男どもが、いとも簡単に吹き飛ばされていた。



歓迎していない訪問者たちはとっくに逃げ去って。
さらに迷惑なことに、彼らの落とした火種が家に燃え広がろうとしていて。
視界は火にどんどんと浸食されていく。
けど、それよりも近く、視界を覆うものがあった。
それは、私の前に膝をつけた男。赤髪の手のひら。


「大丈夫か」
「…助けてくれなくてよかったのに」


伸ばされた手を掴むなんてできなかった。
痛む身体を押さえながら、どうにか身体を起こす。
頭がふらついて、立つのもやっとだけど。


「早く、この家を出ねェとな」
「そう、ね。…ほんと、迷惑な話だわ」


貴方のことも、その前に家にいたやつらのことも。
みんなみんな、迷惑な話。
私物なんて殆どない部屋に一枚だけある写真を持って。箪笥の中の服も何枚か抱えて。
急いで、私と赤髪は家の外へ出た。


「荷物、それだけで良かったのか?」
「このくらいしかないのよ。あとは本とか、食糧とか。生活雑貨とか。別に思い入れもない、何処ででも手に入るものばっかりよ」


服はなかなか手に入らないから持って来たけど、と呟いて。
早くも崩れ落ちそうな家を見た。
そういえば、赤髪はどうして此処にいるのだろう。
何か用があって来たはずなのに、こちらのごたごたに付き合わせてしまった。
少しだけ申し訳なかったかもと思いながら、横目で彼を見上げる。


「ん、なんだ?」
「…何か用があったのかと思って」
「ああ、そうか。そうだったな」


赤髪は、ゆるい笑顔を浮かべた。
そっと私の髪に手を伸ばして、ゆるゆると頭を撫でた。
彼が何をしたいのか、なんでそんなことしてるのか全く理解できなくて、首を傾げる。


「明日、此処を発つことにしたんだ」


その言葉は、自然と私の耳に馴染んでいった。
いずれ来るって、分かっていた言葉だった。
けど、なんだか聴きたくなかった言葉だった。
短い期間だったけど、私と普通に接してくれる数少ない人だったから。少しだけ、寂しいって思ってしまうのは仕方がないことだろう。

唐突に言われた言葉は、私の胸に強く響いた。


「…そう」
「なんだ、驚かないんだな」
「分かってたから」


出会った時から分かっていた。
いつかこうなるって。
彼は海賊、私はただの一般人。
そもそも交わるはずのない道にいたんだから。


「そう、か」
「うん」


ゆるりゆるりと優しく、彼は私の頭を撫でる。
彼の行動はなにひとつ理解できないけれど、それでも今の行動は少しだけ気持ちが良い。
離れてしまうならせめて、少しでも好きにさせてもらおう。
きっと、もう一生会えなくなってしまうのだから。
そう思って、私は彼のいる側の手で、指先で、彼の服を少しだけつまんだ。


「…次の島までは、ほんの数日で着くらしいよ」
「知ってる。まァ、そんなことはどうでもいいんだ」
「船長がそんなこと言うなんて。あなたの仲間は苦労するわね」
「知るか。苦労させとけ」


そんな投げやりな言葉に、思わずくすりと笑ってしまう。
彼らしい言葉すぎて、ほんのり温かい気持ちになる。
それと同時に、こんな会話も明日までだって思ったら、不意に目頭が熱くなった。

あ、泣いちゃいそう。
そう思って、ちょっと俯いて、涙を堪える。


、」
「…なに」


私の様子がおかしいことに気がついたのか、彼は手を止めた。

何度か瞬きをして、涙が出ないことを確かめてから、彼の顔を見上げた。
普段会話するときのような笑みは浮かべておらず、ただただ真摯。


「一緒に来ないか」


ガシャンと、音を立ててついに家が崩れた。
火が一層燃え上って、ばちばちと火花が飛ぶ。
そんな中でも、彼の言葉はよく聴こえた。
きっと、すごく、凄く嬉しい言葉のはずなのに。
私は海賊になんてなれないし、この場所から抜け出せるはずがない。


「…折角だけど、私は、」
「いい。お前は絶対そう言うって分かってた」
「だったら、なんで言ったの」


唇を噛み締めて、俯く。
断られるって分かっていたなら。なんでそんなこと言ったの。なんで私を揺らがせるようなことを言ったの。私はあなたと一緒に行けないって、わかってて、どうして。
彼の顔も見ずに、そんな言葉を矢継ぎ早に言った。


「お前は留まろうとするって分かっていた。だが、それでも俺はお前が欲しい。一緒に連れて行きたい。…それが理由だ」
「…っなんで、私なんか…、」


ずっとずっと独りだった。孤独だった。
それなら、いっそ死んでしまったら、こんな寂しさだってなくなるんじゃないのって、ずっと思ってた。
そんなとき、貴方に出会って、凄く凄く嬉しくて、一日が楽しくて。

ほんの一日しか一緒にいなかったのに、気付けば貴方に依存していた。
貴方なしで生きていけるのか、不安になった。

貴方がいなくなってしまうのが怖い。また、孤独になるのが怖い。
けど、私は外には出られないから。周りの人間まで巻き込んで、危険に晒してしまうから。あなたの身も危ないから。だから。


「私はっ、あなたみたいな普通の人間じゃないのよ…っ」


叫ぶように、声を張り上げる。
彼の顔を見ることはできなかった。
俯いて、目に涙をためて、すごくすごく情けない顔でそんなことを叫んだ。


「あなただって、有り得ないって言ったじゃない! 涙一粒で怪我もすぐに治っちゃうのよっ おかしいでしょう、きもちわるいでしょう、だったらそう言いなさいよ、同情で優しいこと言ったってそのうちあなたは私を捨てるでしょう!だったら私なんかにそんなこと言わないで、どっか行って、あなたと同じ普通の人間を相手にすればいいじゃない!」


どうせ最後は離れるなら、最初から近づかないで。
そう言った頃には声は掠れて、目からはぼろぼろと涙がこぼれていた。
俯いていたからか、ぽたぽたと地面に跡を作った。
頬を伝う涙は、顔に負った傷を治していく。じりじりと染みるたびに皮膚が再生されるのがわかって、その瞬間にも私の異常を思い知った。
ねえ、目の前でこんなことが起きていて、あなたはどうして逃げ出さないの。怖がらないの。気持ち悪いって、思ってるんじゃないの?


「なぁ、なんでお前は泣いてんだ?」


頬に片手を添えられて、もう片方の手で涙を拭られた。
その涙を、私の米神のあたりへと擦りつける。
じわっと染みるその感覚から、そんなところまで怪我してたんだなあなんて、思った。


「俺は同情なんかで誘ってねえよ。俺の船に乗せたやつは、そいつがどうしてもって理由で降りてえ時以外は絶対に降ろさせねえ。だから、お前が心の底から降りたいって言わなければ、俺はお前を手放す気はない。

 …分かれよ。そのくらいの覚悟もって、俺は言ってんだ」


赤髪の手が私の髪を撫でて。
その手があまりにも優しいから、私の固く縛りつけられた心も全部ゆるゆると解かされてしまうような気がした。
どうして自分がこんなにも頑なで面倒くさい女なのかわからなくなって、いっそここで素直に“行きたい”って言えばいいんじゃないかって思った。
…けど、それで掴む幸せを思い浮かべるよりも先に、もしも裏切られた場合のことが思い浮かんで、二の足を踏んだ。


「ちょ、っと…。ちょっと、だけ、待ってて」


呟くように言った言葉は、彼に届いたのか届いていないのかわからなかった。
赤髪は、私の涙を隠すように、被っていた麦わら帽子を私に被せて。
そのまま無言のままずっと立っていた。
私が泣きやむまで、ずっと。

添えられた手は、麦わら越しでも大きくて温かかった。




2010 6 1 三笠