『明日の朝9時出港予定だ。それまでに決めて、一度船に来てくれ。…それまで、その麦わら帽子は預けとくから』 そんな言葉を最後に聞いて、すでに一夜が明けそうだ。 家は完全に焼け落ち、野犬が危険なため、適当な木の上で一息つく。 自分の気持ちはわかりきっているのに、考えすぎてわからなくなってごちゃごちゃして。 一睡もできないまま、朝日を見た。 「お、来たか」 「…約束だからね」 赤髪の麦わら帽子を手に、船へと近づいた。 船の舳先にいた赤髪はひょいと軽い動きで船を降りる。 砂浜に降り立って、にこにこと笑みを浮かべてこちらに近づいてくる。 「とりあえず、これ返す」 「ん」 麦わら帽子を渡すと、赤髪は受け取った流れのまま自分の頭に乗せた。 赤い髪と麦わら帽子の組み合わせは何故だかとてもしっくりきて、私の手の上にあった時とは別のもののように感じた。 「…で、どうだ? 考えてくれたか?」 真剣な視線に射抜かれる。 一気に喉から水分が飛んでしまったみたいに、口の中が乾いてしまった。 言わなきゃという思いだけがぐるぐると私の中で巡っていて、答えは既に決まっているはずなのにそれを口に出す勇気が足りない。 は、と小さく息を吐いて、それからもう一度口を開く。 「 決め、た、わよ」 情けなく、声は震えそうだった。それを必死で堪えて、平静を保った振りをする。きっと彼にはバレてるだろうけど。それでも別に構わなかった。体面だけでも保っておかないと、私の意思が揺らいでしまいそうだった。 「わたし、やっぱり貴方と一緒には行けない」 そう口にしたとき、彼の顔は見られなかった。まだどこかに迷いがあったからかもしれない。それに、一夜明けて、もしも彼の気が変わっていたとしたら。そうしたら彼はほっとした顔をしていたかもしれない。それを見るのが怖かった。必要ないと思われるのが怖かった。わたしは彼と同じ道を行くことを諦めたのに。諦めたことを心のどこかで既に後悔していて、けど外の世界に行くことはただただ恐怖で。矛盾ばかりが渦巻く思考回路で、私はまた口を開いた。 「貴方の誘いは嬉しかったし、行きたいと思ったけれど。私の居てもいい場所は此処以外には無いから。だから…、行けない」 一度も彼の顔を見ずに。そこまで言って、そして私は自分の首にかけていたネックレスを外す。それは、唯一の母の形見である、小さな赤い石。世界に一つだけの、母の血の結晶体。 それを、赤髪へと向けて差し出した。 ぐっと赤髪に手を突き出すと、首を傾げながら赤髪はそれを受け取った。 「なんだ?」 「…母の形見よ。いつか、魚人島に行くときがあったら、近くの海に沈めて欲しいの」 「魚人島だって?」 シャンクスは怪訝そうに、受け取ったネックレスと私を見比べる。 その赤い石は、赤髪の髪よりも深く暗い色で、光に照らされると鈍く反射した。 「昔、お世話になった人がいるんだって。母は新世界の生まれだから、こちらに来るときに魚人島は絶対に通るのよ」 「世話になったからって、形見を海に沈めていいのか?」 「いいのよ。むしろ、それが慣習みたくなってるの」 どうせ沈めるのなら、こんな小さな思い入れも無い海じゃなくて、偉大なる航路と新世界を繋ぐ海に沈めてあげたい。 そう思って、今までの約20年間、ずっと身に着けていた。 いつか偉大なる航路へと行きたいと思う日もあった。けど、一歩海へ出てしまったら、そこでは私はお尋ね者だ。私1人でどうにかなる問題じゃないと、いつも諦めてきた。 「お願い。…あなたには酷いことしかしてないのに、こんなこと頼んですごく申し訳ないとは思ってる。けど、」 「これを預かることはできない」 私の言葉を遮って、赤髪はそう言った。 受け取ったネックレスを私の手に乗せ、落とさないように握らせる。 「俺は海賊だ。お前が思うような善人じゃねェ」 「…知ってる」 「で、だ。俺は世間的には悪人で、そんで海賊だってことは分かってるよな?」 「え? そんなの、何回も言われなくたって分かってるってば」 なにを言い出すのか、と思って首をかしげながら赤髪の顔を見上げる。赤髪は、にやりと悪戯をする子供のように笑っていた。なにを言いたいのか、なにを考えているのかまったく理解が出来なかった。 そして、素早く腕が伸びて、私の腰に回った。そのまま、まるで米俵でも担ぐように持ち上げられて、軽く、歩き出した。 一瞬の、本当に短い時間の中で起きたことだったから、状況を理解するのに少しだけ時間がかかった。混乱する脳をフル回転させて私はとにかく声を出した。 「ちょ、ちょっと赤髪!!!なにすんのよ、降ろしてよ!」 「おっと、暴れんなよ。危ないじゃねェか」 「降ろしてくれたらすべて解決するわよ!」 「それは聴けない相談だ」 足や手を動かしてもがいてみるけど、赤髪の腕はびくともしなくて、そうこうしている間に何故だか浮遊感が増した。あれ、と思うよりも早く赤髪の腕に力が篭る。 「えっ…、あ、赤髪…?」 「俺の名ァ、シャンクスだ」 「いやあの、そうじゃなくって…」 「覚えろ。これからはそう呼べ」 そう言って、赤髪は、ええとなんて言っていいのやら。 分かりやすく言うと、そう、私を抱えた腕を、赤髪の船の方向へと、思いっきり、振 り か ぶ っ た 。 「受け身はちゃんと取れよー」 そんな軽い言葉を投げかけられ、私の身体は抵抗する間もなく宙を舞った。 ぐるりと視界が変わって、とにかく私は体勢を直そうと向きを変えて、着地点を見定めようとする。 なんだなんだと騒ぎ出す海賊たちが正直邪魔だと思ったけど、巻き込まれたいなら勝手に巻き込まれてればいいじゃない場所が悪かったら思いっきり踏んでやるわ、と覚悟を決めて受け身を取ろうとするけど、どうにも間に合う気がしない。 もしかして無様に着地失敗するのかな、なんて一瞬頭を過ぎった。 と、そんなとき。 ふと落下が止まった。 いや、受け止められた。 「…おい、大丈夫か?」 1番最初に感じたのは、煙草の苦い匂い。受け止めてくれたその人は、黒い髪を全て後ろに撫で付けて一つに縛っている。 低い声と心配する声に返事をする前に、その人は私をその腕から降ろした。 ぺたぺたの薄いスニーカーが、ようやく船に着地する。 「…ありがとう」 「いや。元はといえば、うちの船長の所為だからな」 そう言って、くいと視線を私が飛んできた方向へと向ける。 私も同じように視線をそちらへと向けると、縄梯子でもあるのか、赤髪はゆるゆると登ってきた。 「…迷惑かけたわ。ごめんなさい。今すぐ降りるから」 「おいおいおい。ちょっと待て。そんな簡単には降ろさせねーぞ」 そんな言葉を投げかけてくる赤髪を睨むけど、赤髪は浮かべた笑みを崩さなかった。 周りは海賊たちに囲まれている。力づくになったら敵わないだろうなあなんて思いながら、どうやって降りようかとのんびり考えていた。 「お前、別に此処に居たいわけじゃねーんだろ?だったら一緒に来いよ」 「…だから、」 「お前が何者だって構わねェよ。どうせ俺らはお尋ね者だ。今更追われる理由が増えようが大して関係ねーよ」 そう軽く言い放つ赤髪に思わずため息をつく。 行きたくないわけじゃない、この島に未練があるわけじゃない。けど、誰かを危険に晒してまで海に出る価値はないって思ってた。 「貴方は良くても、貴方の仲間はそうは思わないかもしれないわよ」 「…てことは、お前は来てもいいんだな?」 「そ、そんなこと言ってない」 「じゃあ、行きたくないのかよ」 息が詰まるような感覚。行きたくないわけじゃない、この島から出ていろんな島へ行ってみたい。世界をこの目で見てみたい。 そう思うのに。そう言ってしまえばいいのに。 長い間燻ってきた想いがあふれ出してしまいそう。 いけない、と理性でなんとか押さえてみても、じわりじわりと侵食してくる。 折角必死で断りの言葉を考えたのに。 どうしてこの人はこんなにしつこいの。どうしてこんなに私を連れ出そうとするの。 どうして。 「…いき、たいわよ」 ちいさく、ぽとりと零れ落ちた。 一度零れてしまったら、それを戻すことなんてできなくて、ぼろりぼろりと流れてしまう。 「私だって、好きでこんなところにいるわけじゃない。でも、私と一緒に居たら、いつか絶対後悔する。あなた、絶対面倒だって思う」 だから、もうやめて。 そう言おうとしたけど、声は出なかった。 赤髪の手が、私の髪に触れた。頭に手を乗せられて、がしがしと荒く撫でられる、ううん、掻き混ぜられると言ったほうが正しいかもしれない。とにかく荒い、大きな手が私に触れた。 「後悔なんかしねェよ。俺がお前を連れて行くって決めたんだ。それでもしお前が言う"面倒"が起きたって、絶対にお前の所為にはしねェ」 そう断言されて、視線は真っ直ぐ私の目とかち合って。 視線を逸らしていいものかどうか迷った。でも、どうにも目が熱くなって、耐えられなくなって俯いた。 「…なにがあっても、謝らないわよ」 「おう。謝る必要もねェよ。誘ったのは俺だ」 「…なら、いい」 (連れて行って) そう小さな小さな声で呟いた。 きっと赤髪にしか聴こえなかっただろうけど、その瞬間に赤髪は満面の笑みを浮かべて、くしゃりと私の髪を撫ぜた。 そして彼は、一歩踏み出して、思い切り息を吸って。言った。 「よーし、お前ら!出航だ!!」 覗いていた海賊たちはその言葉を聴いて雄たけびを上げた。 ばたばたと出航の準備をすべく走り回る。 少しだけ潤んだ視界を服の袖で拭う。何度か瞬きをすると、見る見るうちに視界が鮮明になった。 世界が色づいた瞬間だった。 2010.08.19 三笠 |