いつかありがとうと言えますように
冷たい空気で体も冷える。
ふうとついた息は白く、そろそろ眠ろうかなあなんて思った頃。


「なんだ、まだ寝ないのか」


木製の船がギシリと軋んだ。声を聞けばわかる。赤髪があくびをしながらこちらに近づいてきた。


「赤髪」
「シャンクスだ」
「…シャンクス」


ぼそっと言いなおすと、満足そうにシャンクスは笑った。
赤髪なんてただの通称だし、やっぱり名前で呼んでほしいのかなあ、なんて思った。ただ、他のクルーは船長もしくはお頭呼びだったけれど。


「ちょっと、信じられなくて」
「何がだ」
「島を出たことと、この船に乗れたこと」


一度伸びをして、立ち上がる。振り返ってシャンクスを見ると、珍しく麦わら帽子を被っておらず、黒いコートが夜に紛れて見えた。


「信じられてなくても、現実だ」
「うん。今度、お礼言うから」
「お礼?なんだよお礼なんて言われることしたか?」
「ん、わかんない」


なんだよそれ、とシャンクスは笑った。
今度、と言ったのも引っかかったのだろう。今じゃないのか、とも呟いていた。


「いつか、私がやりたいことがやれたとき、ちゃんと言うから」


それまでは、言わない。
本当に良かったか、後悔しないか、まだわからないから。


「…そのときは、こっちからも言わせてもらう」


シャンクスの赤い髪が、黒いマントが風になびいた。
笑顔を向けたまま。私はその顔を見上げていた。


「お前がついてきてくれたこと、きっとその頃になっても感謝は忘れてないと思う」
「…お互い幸福になれたらいいね」


そう呟いたら、苦笑したように顔を傾けた。
なにか変なことを言っただろうかと思って考えるけれど、思い浮かばない。シャンクスは私に近づいて、頭を軽く小突いた。


「幸福になれたらいいんじゃない。幸福になるんだ。そのために夢があるんだろ?」


シャンクスは二カっと笑った。眩しかった。苦しかった。
私が諦めてきたこと、この人は全部諦めずにきた人なんだ。
どれだけ辛かったり苦しかったんだろう。どれだけ楽しく嬉しくはしゃいだことだろう。
私は何一つ知らないけれど、でもこの人が誰より楽しそうで子供みたいで、誰よりもまっすぐだって知っていた。
私と正反対にいる人間だって、気づいた。


「明日は一日海の上だろうけど、ちゃんと起きろよ?」
「わかってるよ。子供じゃないんだから」


俺から見ればお前なんかまだまだガキだ、とシャンクスは言った。
何一つ知らねえじゃねえか、と目を伏せながらシャンクスは続けた。
そうだよ、知らないよ。きっとシャンクスの知ってる世界と比べたら、私の世界はずっとずっと小さいだろう。でも。


「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」


こう言える人がいることがどれだけ私にとって嬉しいかを、シャンクスは知らないんだ。どれだけ感謝しているかを。どれだけ私の世界に変革をもたらしたかを。





(言葉のひとつひとつがどれだけ嬉しいかを、あなたが窺い知ることなんてできないのです)


2012.3.16 三笠